昭和47年11月18日 朝の御理解



  御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 信心をしておるから我慢しとかにゃならん。信心をしておるから、こらえとかねばならんと云う様な事では、信心をしておる事が、かえって惨めですね。信心しよるから、ぐうぐう言うてこらえとると云う様な事ではいけん。まぁそれは修行の過程においては、それを修行と思やいいですがね。だからその過程においてね、もう是を信心の修行と思うて、まぁこらえる、辛抱する。そりゃ神様は修行として受けて下さるでしょう。
 けれども私は、其処の所の信心をもうちょっと頂いて、も少し本当の事が分からせて、いや本当の事と言うのは、神様のお働きを信ずるとこう申しましょうか。神様の働きを信ずる事が出来る様になると申しましょうか。ね。そこにはねこらえるとか、辛抱すると云う事は要らなくなって来るのですね。私はそういう信心が、私はしっかり信心の帯をせよと仰っておられるのは、そういう帯でなからなければ、たいして役に立たない様に思うですね。ですから皆さんがこうして、一生懸命信心の稽古をなさって。
 本当に神様のおかげ、神様の働きと言うものをあらゆるまかくどから、見たり聞いたり自分が体験させて頂いたりして、本当に神様の働きのもうそれこそ、一分一厘間違いの無い御働きがあっておる中に、こう云う事になって来るんだ。例えばここで言うならば、そういう中から、ね。人から悪口を言われた、ね。乞食じゃ泥棒じゃと言われる様なことを言われたと。でもね、
 それが神様の働きの中にある事だと信じたら、腹を立てんで済みますね。しっかり信心の帯をせよというのは、そこまで行かなければしっかり信心の帯をした事にならない。ですから是は皆さんの場合本当に、そしてその合楽に通うて見えておられる皆さんの場合はその其処ん所がです何時の場合でも、神様の一分一厘間違いの無い働きには恐れ入ると。まぁ親先生が祈りの圏内だからと言った様な事を皆さんがよう言われます。
 だからそれを本当に言える所迄ではなくて、それを信じれる所まで行かにゃいかん。ね。その言えると云う事もやはり自分自身も、おかげを受けての体験から生まれて来るのでしょうけれども、ね。それを信じると云う事。ね。例えばほんなら、お取次ぎを頂いてからの事であるから、お取次ぎの働きを信ずる。自分が例えば、信用しておる所の親先生の信心を信ずる。親先生の祈りの圏内で起きておる事であるからね。
 それを間違いないと信じれれると云う事。それを信ずると云う事。そこに安心があり喜びがありね。例えば腹立ちなどと言う様な物は、影を潜めて来る訳ですね。人が自分を泥棒じゃと言うた。人が自分を乞食のごたるやつと言うた。ね。けれども神様の働きを信じておる。お取次ぎの働きを信じておる。親先生を信じておる。親先生が日々あの様に間違いのない働きを現して見せておって下さるんだもん。
 そういう働きの中に私もあるんだもん。ね。とそれは信じられる。それが私は信心の帯だと思うですね。しっかり信心の帯をせよと。ね。そこには、どう云う事になるかと言うと。はぁ神様がこう云う例えば恥ずかしい思いをさせなさる。こう云うきつい修業をさせなさる。先には神様がどう云うおかげを下さるのだろうかと、例えば心楽しゅうなる。私はそのくらいのおかげを頂かなければいけないと思う。ね。
 こら合楽で、皆さんが良く言う事でしょう。お願いをしてから起きて来る事ですから。親先生の祈りのね。間違いのないお祈りの中に起きて来る事ですからね。まぁいうならば安心しとりますと。本当にそれが言えて、それが信じれれると云う事ね。信心の帯をせよと。私は神様を信じた、信じる事の出来れる帯をしっかりしとかにゃいかん。所が神様をまぁ信じてはおるけれども、迂闊にしておると、それが迂闊にしておる事からです、失敗をする事がありますですね。神様の働きそれを信じておる。
 今日も、親先生の祈りの圏内に、お取次ぎの働きの中に、今日もあるんだ。有難い勿体ない。起きて来る全ての事が、そういう間違いのない働きの中から起きて来るんだと分かっておる、信じておる。けれども私共がそこに油断をしておる所からです、ね。迂闊な事になって来るです。昨日は合楽会でしたが、合楽の田中さんが発表しておられる事の中にある、いわば難儀な問題に、昨日早速直面した。所が昨日は朝の御理解の中にも、ひたすらにひたすらにと言う事を、心に掛けさせて頂いておる。
 だからその事をひたすらに祈る願っておる。ある親戚の方の難儀な問題の事に付いて、大変心配をして、その難儀な問題の事のお取次ぎを願うておられた。ね。あれがそのひたすらに祈っていない、ひたすらにその事を思い続けていない時であると、例えばそういう難儀な問題を、例えば腹の立つ問題なら腹の立つ問題。不安で心配でたまらんと言った様な問題という時にです。
 本当にそれに参ってしまうのですけれども、まぁ昨日はそれこそ、ひたすらにその事を祈り思うておる時でしたから、はぁ是は今日お願いさせて頂いた、おかげを頂く為の修行だと、思わせて頂いたと云う様な、発表をしておられました。ね。是がどうでしょうか、昨日の朝の御理解を頂かずにその、ひたすらに思い続ける、祈り続けると云う物が無かったら、やはり失敗ですね。信じておる大体分かってもおる。神様の働きの中にあっておるんだと分かっておりながら、迂闊にしておる所をです、ね。
 失敗になって来る。まぁそれとは反対に、あの久富さんが発表しておられた。私の場合は是は失敗談であると言う意味の事を前提にして、お話になっております。昨日家族中で田んぼに出た。何かあの何ち言うでしょうかね。あぜ草きりか何かと言った様な事じゃないでしょうか。鎌をしっかり研いでから、愈々仕事にかかられた途端に、高々指をこうがっぽり切られた。
 もうそりゃ血の出ること血の出るこつもう、どんこん止めどの無いごと出る。そるきん嫁御さんが自分の着ておるもんぺば、こう引き裂いてからフツか何かをこう揉んでね、こう付けてそしてから、あれは血止めになりますから、あの括ってくれた。それからまた、いっ時ばっかりまた、一生懸命しよりなさったら、今度はまたその鎌、今度は人指し指をがっぱり切りなさった。もうどうにもこうにも出来んから、家に帰って暫く休ませて頂いたと言う、昨日お届けがあったんです。
 ばってん久富さん是りゃただ事じゃないよと。例えばほんなら農家の方が鎌やらあの使われて、鎌で手を切るてんなんてんち言うこつは、それこそ何年に一遍か有るか無いかぐらいのこつじゃろうとに、日に二回もああた人指し指を切り高々指を切りと言った様な事。しかもがっぱり切る様なこつが起こってこらただ事じゃないですよ。こら久富さん本当に合楽ではみんなが繁雄っちゃま、繁雄っちゃま総代さん総代さんと言うてもう本当に、それこそまんまんしゃまのごとああたの事をみんなが言うじゃない。ね。
 だから合楽では素晴らしいのだけれども、ああたが家に帰ってから、恐らく良かじっちゃまじゃないに違いは無い。そしたら実はああたち言うてから、話された事ですけれどもです。ね。奥さんから、何かちょっと言われた事が無性に腹が立った。ね。そこで例えば繁雄さんの事ですから、大きな声も出しなさいますまいけれども、もうとにかくそんな事が腹が立って、まぁ少し文句を言いなさった。その直後じゃったち言う。ね。それで私は申しました。例えばこの高々指と言う事は中心。
 こう手の中心にある。自分の心の事です。ね。心を汚しておる。心を怪我しておる。人指し指と言うことは、人を怪我させておる、ね。奥さんなら奥さんを怒られた。ほんなら、奥さんの心を切り刻まれた。同時に自分の心も怪我しておられる。腹立ちと言うこと。まぁそれこそ今日の御理解で言うならばです、ね。神様の働きの中にある。一分一厘間違いの無い働きある。親先生の祈りの圏内にある。もうこんな事は十分知っておられるはずの、例えば久富さんが、相手が家内である為に迂闊であった。
 是が嫁御さんか何かならば、ちょっとこう言うなら、考えてみるゆとりがあるでしょうけれども。ほんならね、いわゆるその家内であった為に、もう我が良かごとまぁ言えれる訳ですから。その腹立ちを奥さんにぶってけられた訳なんです。そしたら所謂早速お気付けを頂いたね。それで家内に申しました。そして是から本当に良かじっちゃまになる事を、家内に約束したと言った意味の事を発表しておられました。
 そら成程手を二本指を切られたけれどもね。合楽の教会で本当にそれこそ、良かおっちゃまで通っておられるのであるから家に帰られても、やはり良いじっちゃまで通られる。もう本当に、家のじっちゃまばっかりは、おごりなさった顔を見たこつが無か。もう本当に、荒々しい言葉ども使いなさった事が無かと言う位にです。家庭の中でも、信心を出来なければ、折角、合楽の教会だけで素晴らしいだけでなく、家でも素晴らしい、やはりおかげを頂かなければいけない事が分かったとするならです。
 是はま大切ないわばおかげです。ね。ですけども繁雄さんにして、そういう迂闊の事がある訳です。知っておる分かっておる。ね。朝お参りをさせて、一日の事をお願いをしてお取り次を頂いて、そして起きて来る事であるのですから。例えば家内がどげんこっちの心に傷付ける様な事を言うても、それをそれこそどっこい。今日は家内が、ちった機嫌の悪かばいなと云う様な頂き方で行けばいいのだけれども、それを反対にもうね。そのうって返した様な感じですね。
 そこで自分の頂いておる、しに分かってもおるけれども、その信心をいわば取り落としておる所に、そういうお気付けを受けておるのだとね。それを分らせて頂き、それを気付かせて頂いておる。だから是からは一つもう怒らんぞ、是からは良かじっさまになるぞと言えれたと云う事なんです。ね。ですからそれがもっと大きな事か何かであったら、その受け止められるのですけど、ほんのちょっとした事が、いわば腹立ちの元になったり、怪我する元になったりするのですから、用心が必要である。ね。
 そこで例えばほんなら、昨日の田中さんじゃないですけれども、ひたすらに祈り続けておる。ひたすらにその事を思い続けておる。ね。そこにいうなら水も漏らさんおかげが頂かれる。そう云う時が、私はしっかり信心の帯をしておるときだという風に思うです。ね。神様を信じて疑わないと云う帯を締めておる。ですから例え人からどう言われてもです、ね。それを腹は立ててはならぬと仰る。腹を立てんで済むおかげが受けられる。信心の帯が緩んでおる時に、ね。
 私共が失敗をする。まぁそこでですね、ほんならあの合楽の皆さんの場合です。どう云う様な事が例えば、起きて参りましても、それは言われる様な事がありましてもです。ね。神様の一分一厘間違いの無い働きの中にあるんだと分かるのだけではなくて、それを信じる。それが私は今日は、信心の帯だという風に聞いて頂いたんですけれども、それがね信心の如何にも帯の様であって、それが緩んでおったり、いやそれが怠慢であったり、慢心であったりする様な場合があると云う事なんです。ね。
 起きて来る全ての事が、親先生の祈りの圏内の中にあるんだと。お取次ぎ頂いて起きて来る事であるからと頂いて、如何にもそれは殊勝であり、有り難い事の様ですけれどもです。それがね、本当に信心と言うものはもう厳密に厳密にその、確かめて行かなければいけないなと言う事を昨日、私頂いた。昨日もう四時下がってから、昨日秋永先生が見えとりました。私と久富先生と秋永先生と三人で、まぁ色々信心話をさせて頂いておるうちに、秋永先生が、子供の事を話しておられる。
 久富先生も子供達の事を話しておられる。本当に相すまん事ですと、自分が出来んものだから、子供たちが本当に本当の信心にならんと言う様な意味のことを、久富先生が言いよりなさいましたら、秋永先生が「久富先生、子供達が、例えば信心になるとか、ならないと云う様な事はもう、気に掛けんぐらいな方がおかげを頂かにゃいけんですよ」私はまぁ例えば、徹達の場合なんかでもです。本当にそら目に余る様な事があるけれども、この頃、それを気に掛けないで済む様なおかげを頂いておるという。
 まぁ二人とも子供の不行きとどきは、親の不行きとどきと、久富先生は言うておられる。秋永先生は、子供のたとえばその、不行き届きの状態を見てもです。これもたとえば親先生の祈りの中にある事だからと思うから、それをさ程に目に余る様な事であっても、心にかからんで済むおかげを頂いておるとこう云うわけなんです。それで私その話を聞かせて頂いてから実はね、私は今日は四時の御祈念をさせて頂く時に、あるこう云う事をお願いさせて頂いた。
 そしたら御神願にね、もうそれこそ見事なあの細工をしたプラチナの指輪をはめておる所を頂いた。それはもうここんとがもう見事な細工がしてあるプラチナの指輪。心眼にはっきりとそれがプラチナの指輪と分かる。ね。所がこの指輪をはめておる。上から見たらそら見事な素晴らしいプラチナの細工が施してある所の指輪だけれども。手をこうやって引っ繰り返して見せて下さったら、指輪のこの辺がもう糸のごと、細く成って危なく切れ様としておる所を頂いた。私は本当にこりゃ私達もそれを思うとる。
 合楽の皆さんの場合、どう云う事であっても、神様の一分一厘間違いが無い働きの中にある事だからどう云う事であっても、それこそ細工は流々仕上げをごろうじと、もうあえて言えれる程しのおかを受けておる事なんです。どういう例えば難儀な問題が起こってもです。神様のご都合じゃがと。ね。それこそ神様の細工は流々、仕上げをごろうじ、仕上げを見た時にです。やっぱ、神様の働きの素晴らしさに、私共が何時もほとほと感心する訳です。皆さんもそうでしょうが。ね。
 昨日阿倍野の先生からお手紙を頂いた。伊藤コウ先生。先日大阪に参りました時に、兎に角この伊藤先生に、一目お会いするだけでも良いと言うので、参りました。そしてわざわざ泉南教会の方へ、先生方親子でお見えられて、そしてあそこで面接のおかげを頂いた。本当にそこ迄おかげを頂く為に、大変あの泉南の先生の、まぁ取り持ちとりなしのおかげで、そういうおかげを頂いたから、もう私は帰ってその晩もう長々と有難いおかげを頂いた事、また色々お世話になった事を、お礼の手紙を出したけれども。
 阿倍野にはその出していなかった。それも写真を記念写真を撮って下さってあるから、記念写真が出来たら、そこにお送りする積りであった。その時にお礼の手紙を差し上げようと思うと云った所に向こうから手紙が来た。それで先日はご参拝を頂きましたけれども私が留守で、ね。そのお茶も差し上げられなかった。お構いも出来なかった事をまぁ深く深くお詫びをして見えておられる。もう私は恐れ入ってしまいました。ね。
 成程泉南でお会いして、その足で京都の四条の方へ、お出でられましたのですから、おられる筈はない。だからおられん事は分かっておるのだけれども、お教会だけには参拝のおかげを頂きますというて、私共はおかげを頂いたんですから、ね。お構いどころじゃない、本当の実はその時お土産まで頂いて帰って来ておる。それにその事のお詫びを、細々とあの言うてそして、本当にあの記念祭の日にお出で頂いたと云う事は、もう本当に神様の不思議な働きの中にある事で御座いますと。
 本当にお粗末なもんだけれども、記念祭の記念品をあの別便でお送りしましたから、お受け取り下さいと云う。もういよいよ恐れ入ってしまう。ね。例えばその時の事などでもです。ほんなら私が朝のお知らせを頂いて、そしてその足で飛行機で大阪に発たせて頂いて、帰って来る迄の働きの中にはもう何回も聞いて頂いた様に、神様の一分一厘間違いの無い、恐れ入ってしまう働きの中に、成程細工は流々仕上げをごろうじと言う様なおかげを頂いて、皆様にも見て貰うたり聞いて貰ったりしている訳ですね。
 何時の場合でもそうです。それこそある場合には型にはめたごともうね。計った様にきちっとしたお繰り合わせ、おかげを頂いておる。だから皆さんも、それをやはり頂かれる。だから問題があっても、起きて来て参りましてもです。神様の御働きの中にある事だからと言うならば、秋永先生じゃないけれども、安心しておられる。ね。けどもほんなら、久富先生の場合はそれを本当に、子供たちの例えば出来が悪いと言った様な事は、親の責任だと言うて、いわばお詫びをしておられる。
 けれども果たしてほんなごて、「久富先生、あんた、ほんなこてお詫びをしよるの。」「秋永先生、ほんなこてそれであんた、安心しとるの。」と。まぁいうならば言いたい所であります。そこで私が今御広前を下がる時に頂いた、今の指輪のね。それは細工は流々仕上げをごろうじと、言う位なおかげを、確かに頂いておるけれどもですね。神様がそういう細工は流々と言う、おかげを下さってあるけれどもです。
 果たしてほんなら、自分の信心は本当に安心のおかげを頂ける程しの信心をしておるか。本当に口ではお詫びをしよるけれども、お詫びの信心の修行が、久富先生に出来ておるかと言う所なんですね。細工の方は流々と、立派な仕上げが出来て行きよるけれども。こうひっくり返して見た所が、もうここの突っ切れよりはせんかね。夕べはここのもう糸のごとなって、もうちょっと何かに当たったら
 、ぽろっと取れて落とす様な状態にありはしないか。私はここ辺の所を、昨日頂いてもう本当に、自分の信心と言うものが、如何に厳密に何時も検討されておらなければならないかと云う事を感じました。成程合楽ではです、本当に間違いの無いおかげを頂く事と、間違いないと思うから、それを信じておる。例えば今日はそれを信じておると云う事が、信心の帯だとこう聞いて頂いた。ね。
 けれどもその信じておるという、その帯がです。果たしてつっ切れよりはせんかと。本当にそれを信じれれるだけに、安心が出来る程しに、秋永先生信心が本当に出来ておるかと。成程あなたが言いよる事を聞くと、本当に子供の事の不調法を、親の不調法として、お詫びをしよる様に言いよるけれども。果たしてお詫びをしよるかと。いやお詫びの信心が出来よるかと。ね。其処ん所をです。
 検討する時に私はこの指輪のこれが切れかかっておる。だからもう本当に信心を極めて行くと云う事は、此の事を頂いてから、しかし素晴らしい表現でこういう難しいとても説明しようとしても出来ない信心を、こう云う風に説明して、御理解下さるのですから有難い事ですなぁと言うて、秋永先生と久富先生が、昨日言われた事で御座いました。素晴らしい事でしょうが。いいですか今日私はね。繁雄さんの例を取りました。
 田中さんの例を取りました。ね。秋永先生、久富先生の例を取りました。そして例えば、ここで例えば盗人じゃと言われても、乞食じゃと言われても、ね。ただぐうっと辛抱すると云うだけでは信心しとる為に、返って惨めに見える様な事になりはせんか。ね。けれども信心しておるおかげでです。例えば泥棒と言われても、例えば乞食だと言われても、腹を立てんで済む程しのおかげを受けておると云う事が、有り難いと云う事。ね。その例えば、中間にです。
 田中さんが言われる様に、今日お願いをさせて頂いておる事の難儀な問題をお願いをしておる。だからこういう苦労もです。そのおかげを頂かせて頂くための修行だと思うたら、有難うなったと言われる、田中さんのそのそこに近付いて行きよる信心の姿、ね。ほんなら、久富さんの場合なんかは、もうそこ辺の十分自分でも納得し、分かっておると思うておる。親先生の祈りの圏内で、一切があるんだ。御広前で本当にその事を信じておる、思うておるから、成程実意丁寧な繁雄さんの信心が、そこにある訳だ。
 本当に皆んなからおっちゃま、おっちゃまと、立てられなさるだけの信心が、そこにあるのだけれども。さぁ家に帰ってそれが相手が家内である場合には、もうそこに緩んでおると云う事に気が付いたと、繁雄さんが言っておられると言うのです。ね。相手が他人であったり、それが嫁御であった場合だったらです。ね。そのくらいな事例え言うても、返って、お詫びをしてやりなさる様な事じゃろ。けれども相手が家内であった為に、「おめぇが、ねぇごつ言いよるか。」と言う事になった訳けですね。
 そしたらその矢先にですね。始めの間はそげん切り方せん。一遍怪我したとき迄は、まぁだそん気が付いてなかった。けれどもしかも二遍もこの指を切る様な事が起こった時にです。初めて気が付いて、こりゃ俺が間違うとったと所謂中心が狂うておった。人をけがさせた。ね。そこに気が付かせて頂いて、「お母さんおらもう、是から良かじっちゃまになるぞ」「これからは、こん位な事で腹立てる様ことはせんぞ」と言う様なものが出来た。ね。其処ん所をです。
 神様を信じて疑わないけれども、油断をしておると、御広前では失敗はないけれども、家に帰って失敗をすると云う事であってはいけない。その為にです、私どもは、昨日の朝の御理解じゃないけれども、ひたすらにお祈り続けておると言う信心が必要だと云う事を、聞いて頂きました。ね。さぁ、そこ迄で、ほんなら、しっかり信心の帯が出来た様にある。そこ迄でですね。けれどもです、なら、しっかり信じてもおればです。ね。詫びれば許してやりたいのが親心と仰るから。
 おかげが頂けると信じておられるのが、久富先生。ね。例え子供たちがどうであってもです。親先生の祈りの圏内にある事だから、久富先生そげな私は、お詫びと言う心配はせん。もうあれどんが、どう云う事であっても、目に余る様な事があっても、それが気にならないと云うのが秋永先生。ね。素晴らしい事でしょうここまでは。けれどもそれをもう一つ厳密に言うと、私が昨日頂いた、指輪のそれになる訳なんです。
 本当に神様は細工は流々、仕上げをごろうじと言わんばかりのおかげを、何時も見せて下さるのだけれども、ね。だから安心しておるのだけれども。だから詫びれば許してく下さると云う事も、信じておるのだけれども、果たして詫びれる信心が出来てるか。口だけじゃないか。ね。本当にどう云う事が起こっても、親先生の祈りの圏内と言うて、安心しとるごたるけれども、本当に安心が出来る程しの信心が出来ておるか、秋永先生とこう云う事なんです。それで手の平をひっくり返してみた所が、ね。
 指輪の輪です。輪と言う事は、和賀心の和、信心と言う事でしょう。信心が果たしてそれだけに信心が出来て、いわば安心であり、詫びれば許して下さると云う確信がです、ね。出来た時が本当の信心の帯と言う事になるのです。今日は私はしっかり信心の帯を背よと言う、その信心の帯と云う事をね。いうなら初歩の所から、もう今の指輪の事なんかはもう、とてもこりゃ説明しようとして、説明の出来る事じゃないです。
 神様のその指輪のお知らせを頂いてこそ、初めて本当にそういう難しい厳密な信心を、そういう表現で頂くと、私共でも分かりますと、秋永先生、久富先生が言うておられる様にですね。そういう例えば難しい事を、今日は頂いた訳なんですね。そして私共が本当に信心の帯を、本当の信心の帯を、しかも油断なくですね。緩める事なくですね。しっかり信心の帯をしとる様であっても、ね。
 お広前では、確かに、しっかりしとるけれども、家では、もう少し緩んでおるというようなことのない事のためにです、ね。ひたすらに祈らせて貰う。いわば、祈りを持たなければならないと云う事。その先に、もう一つ、いわゆる、安心しておる、本当に徹底したお詫びから、おかげの頂ける事を信じておると、例えば、言うても、果たして、ほんなら、お詫びと言うが、お詫びの出来るだけの、本当にお詫びのしるしと言う信心が出来ておるか、久富先生。ね。
 秋永先生、あんたそげん安心しとると言うけれども、その安心が出来るほどしの、例えば信心が、果たして出来ておるかと問われた時にです。成程ひっくり返してみたら、指輪はもうつっ切れよると云う事になって来る。所謂この和の方が切れよる。こっちのほうの細工は流々立派なそれこそプラチナの、もうそれこそ見事な細工が施してあるけれども、こちらがつっ切れたら、それ共に落としてしまわんならん。ね。
 信心を、もう本当に深く深く反省させてもらう。厳密にです、もう厳密に、自分の信心の帯と言うものを確かめて、おかげを頂いて行かなければならい。そう云う信心の帯が出来た時です。例え、それが泥棒と言われようが、乞食だと言われようがです。ね。それこそ、言う人のことを、祈りこそすれ、ね。神様にお詫びこそすれ、ね。神様にお礼こそ申し上げれれ。
 けれども腹立ちなんかと言うものは、ひとっつも、腹立ちなんかさわらない、全然。そこには、信心しとるけん辛抱せんならんと言ったような惨めさはないでしょう。ね。そこまでを、私共が、信心の、いわゆる、目指しとしてです、ね。折角、信心の帯をしっかりと言うのは、そういう信心の帯をさせて頂けれる稽古に精進しなければならないと云う事になります。
  どうぞ。